服部半蔵が松尾芭蕉?徳川埋蔵金のありかを広めた??


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松尾芭蕉2

徳川埋蔵金の話は知っていますか?

莫大な量の財宝を地下に隠していると言われています。

そして、その場所を示す「ある歌」を日本中に広めて回った使者がいたと言われているのです。

その男の名は・・・皆さんもよく知っている人物です。

 

 

 

Mr都市である関さんが「やりすぎ都市伝説」にて語った松尾芭蕉の本当の姿・・・。

 

松尾芭蕉を考えた時に不可解な点が浮かび上がってきます。

その中の最大の要点は、あの時代に存在した「関所」。

今の時代と比較して考えたら、自由な行き来ができないなんて想像もできませんが、当時は藩と藩を超えるときにある関所というものがあって、自由に行き来するのは一苦労だったそうです。

今でいう国境を超える、といったイメージですかね。しかし、それよりも、壁は厚かっただろうと推測できます。

日本のトップに君臨していた徳川幕府は「反乱」を恐れていました。そのために、自由に犯を超えることが出来ないようなシステムを構築したのです。

この「関所」を松尾芭蕉はどのように超えたのでしょうか?

 

 

そしてもう一つは、高齢にもかかわらず、なぜ長距離の移動ができたのかという点。

松尾芭蕉は旅を始めた当時46歳であり、さらに、一日の移動距離は数十キロだと言われています。
舗装も不十分なあの時代に高齢で長距離の移動は不自然と考えられているのです。

 

 

そのような不可解な点も、松尾芭蕉が服部半蔵だったと考えると合点がいくのですね。

服部半蔵

そのような都市伝説を関さんが紹介してくれました。

まず天下を取る人間は、「初めての何か」を成し遂げると紹介しました。では、日本の天下を取った徳川幕府は、何の始めてを成し遂げたのでしょうか?

それが、「特殊部隊」です。

「特殊部隊」というのは今もなお形成されているもので、日本の警察映画にも登場しますよね。その行動は隠密にされており、特殊部隊に勤務する隊員の奥さんでさえ、その勤務内容は知らされていないと言います。

徳川が形成した「特殊部隊」の長を務めたのが、誰しも一度は聞いたことがあると考えられる服部半蔵なのです。

おそらく「半蔵門駅」や「半蔵門線」などという名前から興味を持った人もいるかと思いますが、服部半蔵の功績が以下に讃えられているのかがこうしたな駅名などから察することが出来ると思います。

現代の大人気漫画「NARUTO -ナルト-」にも雨隠れの里の長、「山椒魚の半蔵」として服部半蔵がモチーフにされたキャラクターが登場。

漫画「あずみ」にも服部半蔵家が登場し、あずみと画策して敵の陣地へと赴きます。
このように今もなお語り継がれている側面を見ても、服部半蔵がその当時、如何に活躍をしていたのかがわかると思います。

 

そのため、おそらく徳川家康から「何が望みなのか?」ということを問われたのでしょう。

そして服部半蔵は自由の身になって全国を行脚し、旅に出ることを望んだのです。

しかし、「服部半蔵」は隠密の身であり、世間に大々的に公表すべき名ではありません。

そこで、「松尾芭蕉」という名で全国を回った・・・と話は繋がるのです。

 

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徳川家に仕えた者となると全国を自由に旅する事も可能となります。

46歳という高齢にもかかわらず一日に数十キロも移動したのも合点が行きます。

松尾芭蕉の出身地えだる「伊賀上野」というのも、忍の地伊賀上野と深くかかわっているため、松尾芭蕉と服部半蔵のつながりが見えてくるのですね。

さらに興味深いのが、松尾芭蕉は俳句があまりにも有名ですが、同時に「ある歌」を広めながら全国を旅したとも言われています。

その歌が「かごめかごめ」。

この歌・・・実は徳川幕府の埋蔵金が眠る場所を指示している・・・とも言われているのです。こちらの都市伝説は別の記事にて記載しています。

 

 

この埋蔵金のありかをしらせるためにこの歌を広めたと関さんは語ります。

もしかしたら財力があることを各地の大名に示し、反乱してもムダだと思わせるため、徳川からの命を受けてかもしれません。

または、各地にヒントをバラまくことで、後世に楽しみを残してくれたのかもしれません。

後世に脈々と徳川はこんなに栄えたということを知らしめるため・・・?

 

あくまでも都市伝説の領域を出ない話ですが、ロマンがあって好き・・・。笑

信じるか、信じないかは、あなた次第。

 

 

 

おまけ

関さんの話は以上のようなものなのですが服部半蔵を調べると、どうも松尾芭蕉に結びつかない部分も見えてきました。

服部半蔵というのは戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏から徳川氏の下で活躍した武士です。

忍のイメージが強く残っていますが実際に忍者だったのは初代だけ。

実は「服部半蔵」というのは代々襲名した名前なのです。そのため、「初代」という言い方をします。

初代 服部半蔵は生没年不詳とされ、伊賀を出て室町幕府12代将軍足利義晴に続いて三河にて松平清康に仕えたといわれます。

そのため、上記の話と照らし合わせると支離滅裂になってしまうのです。

徳川家に仕え始めたのは、2代目から。
家康公に仕えたのは2代目のみと考えられています。

2代目服部半蔵正成は徳川家康に仕えた、伊賀同心の支配役。

いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは彼の事と言われています。

生誕は、天文11年(1542年) 、死没は、慶長元年11月4日(1596年12月23日 ) と言われています。

松尾芭蕉は誕生1644年、死没は1694年11月28日 とされています。

そのため、2代目以降の徳川家に仕えた服部半蔵がもしかしたら松尾芭蕉なのかもしれませんが、功績を遺した服部半蔵というのは2代目。

もしかしたら、2代目以降とう説もあり得ますが少し怪しくなっていきますね。

代々功績を残しているため、松尾芭蕉の時代に生きていた「服部半蔵」がいて、その人が褒美と歌の伝承を兼ねて全国を回った・・・と考えることはできますが、その真相は・・・。

興味深い話でした。

 

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