【古代版】2大吸血鬼!ヴラド・ツェペシュとエリザベート・バートリー!


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吸血鬼

 

吸血鬼と聞くと、完全に架空の話のような気がしますが、過去には「血」に関する事件などを起こした偉人たちがいます。

そんな人達が形を変えて現代に言い伝えられてた結果、吸血鬼の伝説が誕生したのかもしれません。

今回は遠い過去に吸血のモデルとなったような2人の人物を紹介します。

 

 

 

 

 

 

「血の伯爵夫人」エリザベート・バートリー

Elisabeth_Bathoryhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/th/0/08/Elisabeth_Bathory.jpg引用

 

エリザベート・バートリーは1560年から1614年まで実在した人物で、ハンガリー国内でも1、2を争うほどの名家に生まれました。

名家ということで、当然許嫁の存在があり血管する相手は決められていました。昔は大人になる年齢が現代よりも早かった風潮があったため、11歳のころには許嫁のナダスディ家へ預けられました。

そして1575年、エリザベートが15歳の時に結婚しました。

 

結婚後の生活は非常に退屈なものでした。第一、ボンボンで育てられたエリザベートはわがままであり、夫は戦争のために家を空けることが多く、姑は口うるさい人物でした。

やがて姑は亡くなり、相次いで夫も他界しました。

 

そこで、エリザベートの家系の「呪われた血」の症状が現れ始めます。実はバートリーの家系は財産などの分配を避けるために近親婚が多く、それによる精神異常者が多い家系だったのです。

この時、エリザベートは44歳。

女性としてはすでに「老い」が強く見受けられ始め、美貌を得たいと願う年齢になっていました。

 

その時、エリザベートに使えていた若い女性を虐待した際に、偶然その女性の血がエリザベートの手につきました。彼女にはその血が付いた部分がみずみずしい若いころの肌に戻ったかのように見えたといいます。

 

ここで悟ったのです。

若い女性の生き血の中にこそ永遠の若さの秘密があると。

 

やがて、村の若い女性を雇うということは大きく宣伝しました。農村などの家系はわずかなお金だとしても、自分の娘が貴族に使えることができるという誇り高い行為に目がくらみ、次々と娘を奉公に出します。

娘も、家畜の世話や畑仕事によりも貴族に使える方が全然いいということで、その流れを助長します。

 

しかし、エリザベート邸から生きて返ってきた女性はいませんでした。

 

エリザベートが行った所業と言うと、若い女性の体がカラカラになるまで血を出し切り、その下の階へ血が集まっていく仕組みになっており、そこでエリザベートは待ち受けその血の風呂に入ったり、時には飲んだりしていました。

一説によると「鉄の処女」という棺桶のような形をした拷問器具で、扉の内側に無数の刃が装着されていて、扉を締めたら大量の血を出して死んでしまうという、なんともおぞましい器具はこのエリザベートの所業から生み出された拷問器具だと言われています。

 

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血を抜きとられた若い女性は、ぼろ雑巾のように庭の穴へと放りり込まれていきました。

 

しかし、ついに貴族の娘に手を出すようになったところから足が付き、ついにこの奇行に終止符が打たれました。エリザベート邸の地下室からはものすごき腐敗臭と、無数の血痕がありおぞましい光景だったといいます。

こうして1614年。名家だったために死罪を免れたエリザベートは監獄の中で息を引き取ったと言われています。54歳の年齢でした。

エリザベートは「血の伯爵夫人」の異名が付けられ、合計すると600人余りを惨殺。今でも歴史に名を遺す奇行を行った人物、そしてまるで吸血鬼のように生き血を求めた行為から吸血鬼の伝説とシンクロされて語り継がれています。

 

 

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「ドラキュラ」ヴラド・ツェペシュ

Dracula
http://www.carbuncle.jp/vamp/image/Dracula.jpg引用

 

ヴラド・ツェペシュは1431年トランシルヴァニア地方で、ワラキア大公ヴラド2世の三男として生まれました。

ヴラド・ツェペシュの「ツェペシュ」は「串刺しにするもの」という意味があると言われています。

またヴラド・ツェペシュは自分のことを「ドラキュラ」と自称していたとも言われています。この当時の「ドラキュラ」という概念は、「竜の子」という意味合いだったといいます。ヴラド・ツェペシュの父に当たるヴラド二世が聖ローマ皇帝から「竜騎士」の称号を受けており、「ドラクル(竜公)」と呼ばれていたことが由来だそうです。

そのため、現在のようなイメージの「ドラキュラ」ではなかったようですが、その残酷な行為と言うのは、長い年月を隔てた今でも語られています。

 

このヴラド三世が行ったこととして「ツェペシュ」が象徴としているような「串刺し」行為が上げられます。

ヴラド三世は非常に気性の荒い人物だったようで

  • 敵味方に関係なく意に沿わないものは串刺し処刑
  • 国籍や宗教や位なども関係なく串刺し処刑
  • 平民階級に対して行うもので、貴族には行わないのが普通だけど貴族にも串刺し処刑

と、まるでクールポコを彷彿とさせるような

「男は黙って、串刺し処刑」

と言う考え方だったのである。

 

 

この当時敵対していたオスマン帝国のメフメト2世と戦った際には、ドナウ川沿いにオスマン帝国兵を串刺しにさらし、その戦意を失わせたという逸話が非常に有名ですね。

数体が串刺しにされている程度ならば、相手の感情を逆なでしてしまいそうなものですが、ヴラド三世がさらした串刺し兵の数は2万体と言われています。

自国の2万の兵が捕らえられ、串刺しにされていたら、さすがに撤退を余儀なくされるでしょう。

 

この逸話は、オスマン帝国と勇敢に戦ったという英雄伝として語られる場合もあるそうで、さらに「ドラキュラ」の愛称なども今とは違った意味合いであるために、吸血鬼との関連は無理やりなのか・・・と思ってしまいますが、

後の「吸血鬼ドラキュラ」という小説に登場する吸血鬼のモデルとなった人物として名が上げられ、さらにその気性の荒さからくる残虐性、大量の血が流れたというところから吸血鬼と非常に関連の深い人物として語り継がれています。

 

ヴラド三世の祖父が住んでいたと見られている城はドラキュラ城のモデルとなったとも言われています。

 

2b44820c1177783767a56aed44a7d5f4http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/a5/2b44820c1177783767a56aed44a7d5f4.jpg引用

 

 

 

以上が、古代版吸血鬼と言われる2大人物。

ちなみに現代版のリアル吸血鬼たちはこちらの記事で紹介しています。良ければご覧ください。

信じるか信じないかは、あなた次第。

 

 

 

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