安岡正篤伝説!玉音放送の原稿作成、平成の制定!歴史を裏で動かした男!


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「やりすぎ都市伝説」にてオリエンタルラジオのあっちゃんが紹介した昭和の時代を裏で動かした人物!

日本を陰で支えた偉大な人を紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

戦後からすでに70~80年近く経過した現代。

絶望の淵から復活を遂げた日本は経済大国として世界を引っ張る立場にまで上り詰める成長を果たしました。

そんな日本を牽引してきた人物と言えば、戦前は天皇陛下であったかと思いますが、天皇陛下が「象徴」として位置づけられた現代では国のトップを思い浮かべた時に真っ先に頭に浮かぶのは総理大臣ではないでしょうか。

 

その総理大臣。

もしもそれが日本を牽引する人物としての表の顔であり、裏では総理をも動かすような人物がいたとしたら・・・。

どうやらそんな話がフィクションではなく、つまり作り話ではなく実在する可能性が高いようです。

 

昭和の総理大臣で有名どころと言えば吉田茂元総理や、岸信介元総理、佐藤栄作元総理などがいらっしゃいます。

しかし、調べてみるとこの3人の各総理に裏で歴史を動かしていたような人物のバックがあるのだそうです。

しかも、そのバックの人物は同一人物・・・。

その人の名が安岡正篤(やすおかまさひろ)という人。

 

 

安岡正篤

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この安岡という人物は幼少の頃から突出した才能を発揮しており、歩きながら本を読んで電柱にぶつかったり、牛にぶつかったりしたという伝説も残っています。

大学は今で言う東京大学に首席で入学を果たしています。卒業記念として執筆され出版された「王陽明研究」は非常に大きな話題になったそうです。

大学卒業後は官僚になり、まさにエリート街道驀進中でしたが、その官僚を半年ですぐに見限り辞めてしまいます。

辞めた後は自分で「東洋思想研究所」の設立、「金鶏学院」の設立し、1931年には「日本農士学校」の創設など、日本を牽引するような人物を育て上げようと試みました。

 

佐藤栄作元総理とのつながり

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佐藤栄作元総理といえば沖縄返還を実現し、後にノーベル平和賞を受賞した人物です。

この佐藤元総理が沖縄返還に当たり、当然アメリカとの交渉が必要でした。アメリカの大統領はジョン・F・ケネディ。敗戦国であった日本は舐められていたのか会談時間はたったの10分。

そんな重要にして非常に貴重な時間に際して、安岡さんは佐藤元総理にこんな中国の古い言葉を送ります。

戦い

この言葉の意味は「戦勝国は敗戦国に対して侮るのではなく、喪に服するように敬意を持って接しなさい」という意味になります。

佐藤元総理はこの言葉をそっくりそのままケネディ元大統領に言いました。すると、こんな言葉を知っているのか、と佐藤総理は一目置かれて見られたようで、当初の会談予定は10分だったのにもかかわらず、その会談は盛り上がりついには3時間を超えたそうです。

こうしてアメリカとの関係を築き上げた佐藤元総理は後に沖縄返還を達成するのです。

 

 

このような佐藤元総理の功績はまさに安岡さんの助言があったればこそ。

そんな偉大な人物をなぜ我々は知らないのでしょうか・・・。実はそこには安岡さんの生き方が関わっています。

安岡さんは中国の古代からの教えを噛み砕いてこんな言葉を残しています。

「有名無力 無名有力」

この言葉は、有名であればあるほどいろんなしがらみが増え、動きが取りづらくなってしまう。逆に無名であり続ければ陰で力を発揮し続けることが出来るという意味を持ちます。

こうした安岡の生き方によって、我々は今日まで「安岡正篤」の名を知らずに生きてきたのです。

 

 

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ではこの安岡正篤。いつから日本の政治の裏にいたのでしょうか・・・。

実はそれは戦後すぐからという話があるのです。というのも、終戦を告げた天皇陛下の「玉音放送」。

 

 

もちろん陛下は原稿をお読みになりながらこの放送に立ち会っているのですが、その原稿の作成に安岡正篤が関わっているのです。

終戦を告げた瞬間。ちょうど時代が変わろうとした瞬間。

その時から安岡正篤さんは我々の行く先を導いてくれていたのです。

 

 

ここで玉音放送にまで立ち会える人なのですから、当然戦時中や戦前も頭角を現していると思いますよね?

では、なぜ戦犯にならなかったのか。東京裁判と呼ばれる戦後の裁判はとにかく日本を悪者におとしめ、特に中国は南京大虐殺のことを少しでも過大に触れ回り、日本に謝罪をさせたかったなどの事情がありました。

しかし、戦争に力を費やしたであろう安岡正篤さんは戦後も活躍をつづけましたb。

ここには中国の蒋介石と安岡正篤さんがすでに繋がっていたという事情があったそうです。蒋介石はGHQなどの取り入れ、こんなに素晴らしい人はいないと伝え、その後の日本復興にも力をそそげたそうです。

敵国からも愛される男。

 

 

じゃあ、いつまで裏で政治を動かしていたのか・・・?

安岡正篤さんが亡くなったのは昭和58年です。これはもはや昭和の終わりごろ。

安岡正篤さんは亡くなる直前まで自分が死んでからも日本は平和であり続けてほしいと周囲に漏らしていたそうです。

「平和が成立する時代であって欲しい」

そう、「平成」という年号は安岡正篤さんが亡くなる前に提案した年号なのです。つまり今の今まで安岡正篤さんが影響を与えた社会で我々日本人は生きているのです。

 

そんな安岡正篤さんが提案した「平成」の下で、安岡正篤さんの意思を受け継ぎ、その教えを実践している門下生、後継者がいるはずです。

しかし、安岡正篤さんの教えは「有名無力 無名有力」。

我々のしならない所で今日も安岡正篤さんの魂を引き継いだ後継者が、この日本を平和に導いてくれているのかもしれません。

信じるか信じないかはあなた次第。

 

 

 

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